陽射しのいい部屋

主に旅行・お出かけの記録。ときどき食べ物屋さんのおすすめ。

双子を死産した話②

タイトル通り暗い話です。自己責任でお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

入院5日目

 

最後の採血と診察があって、点滴の管が外された。

元々あった腰の痛みと、子宮の収縮による腹痛以外は体に異常なし。

母乳の分泌を抑えるための錠剤を飲んだ。この場の一粒限りで終了ということだったので驚いた。

 

看護師さん(助産師さんだったかも)から退院後の生活についての説明があった。

心と体のケアについての冊子と、子どもを亡くした保護者の会のパンフレットを渡されたが、会に参加することはないだろうなと思った。

産褥期なので1ヶ月後の産後検診まではゆっくり過ごしてくださいと言われた。

出産前日くらいに夫を通して義母から、産褥期になるから家事をしないで済むよう2週間ほどうちに来たらどうかと誘いがあり、

長男のときの出産とあまりに違うのでわたしはそれまで産褥期という考えがなくハッとさせられたのだった。義母の気遣いがすごいなと思った。

 

 

 

 

退院日

 

朝、お腹の手術の傷の抜糸。きつく縫ってあったので糸を引っ張られた時痛かった。

1cmほどの小さな傷の上に改めてテープが貼られ、自然に取れるまでこのままでと言われた。

 

昼食まで病院でとって、15:00頃義母の運転する車で夫と息子が迎えに来た。

まず夫だけ面会室に来て、一緒に双子を見た。

夫の目が赤くなっていたが、主治医の先生と助産師さんと看護師さんもその場にいたからか、泣くことはなかった。

主治医の先生から2人の死因についての説明があり、もはや重要ではなかったけれど、なんとなく、納得して、

多分手術する前からみんなが思うより状態が悪く、こうなってしまったのは仕方なかったんだろうなと思った。

 

双子の入った箱を一つずつ夫と持って、裏にある救急用の扉から病院を出ると息子がいた。

飛びつかれるかと思ったが照れて義母にまとわりついて、いつも通り元気そうだった。

双子を葬儀社の人に預けて、2日後の火葬について説明を受けた。

義母は会社を休んでうちに泊まって家事をしてくれた。

 

 

 

 

火葬の日

 

義母の車を借りて夫と2人だけで参列した。

骨が残るよう朝一番で予約を入れてもらい、9:00前には到着。

お腹の中で2人一緒だったから、最後まで一緒が良いだろうと棺は一つにしてもらった。

小さな棺に入った双子の周りに、小さな花束をバラして出来るだけたくさん敷き詰めて見送った。

1時間ほどで火葬が終わり、骨上げ。

思っていたよりたくさん骨が残っていてホッとして少し泣いた。

骨壷も一つにしてもらった。

それを抱えて東京の家を出発し、今は義実家の床の間に置いてある。

 

 

 

 

死産の後、義実家にて

 

夫が連休と実家での在宅勤務を申請してくれたので、家族みんなで3月半ばまで義実家にいます。

正直、自分の家にいた方が精神的に楽だけれど、体の回復を優先させようと思い義母に甘えることにしました。

息子が昼寝している時間にひとりで近所の喫茶店に出かけてこのブログを書いています。

看護師さんから、辛い気持ちを紙に書き出すと少し気持ちが楽になることもあると教えてもらったので、それなら鮮明に覚えているうちにとブログを書くことにしました。

 

義実家に来てすぐ夫と2人で話す時間があったので、もう妊娠が怖い、出産したくないと泣きながら話したら、「次はきっと大丈夫だよ」と言われ、

やっぱりそれを言いやがったなとギャンギャン喚くうちに少しスッキリしてしまい、あともう一回なら頑張れるかなという気持ちになった。

もう二度とこんな思いしたくないし、それでもまた死産か流産してしまう可能性はゼロじゃないから、本当はもう次なんてないのに。

わたしの体は多分また妊娠できるのだろう。でも妊娠する気になれるかは分からない。

少なくとも今後1年は子宮の回復のために妊娠できないので、その時間を自分の心の回復のために使おうと思った。そうすれば多分大丈夫だろう。

わたしは、あ、今精神的に追い詰められてる、このまま放っておくと鬱になる、と感じたら、今後自分が楽になれる見通しを立てることを最優先にして回復を図ることにしている。その環境を作ってくれる夫がいるからできることだけど。

4月から息子が幼稚園に通い出す。それからの1年、息子と日中離れる時間を自分のために使う。そう思えば少し元気になった。このブログも書けた。

 

妊娠を報告していた友人にLINEで、赤ちゃんが亡くなったと報告すると、みんな悲しんで残念がって、わたしの体を気遣ってくれた。また妊娠しようと思ってるとも伝えたけれど、次はきっと大丈夫とは誰も言わなかった。

ほとんどが第一子のいる友人で、流産の不安に耐えた経験があるからか、多くを語らなくても分かってくれている気がした。

夫はやっぱり分かってくれなかったけれどそれで良い。きっと経験しなければ絶対に分からないから。入院の日まで続いていたつわりで動けずにいた間、在宅勤務しながらほとんどの家事と育児を代わってくれて、次に妊娠した時もそうすると言ってくれた、それで充分だ。

 

結婚して間もない頃、友人の結婚式に出席したとき、わたしより1年ほど早く結婚した友人と「子ども欲しいよね、無事に妊娠できたら良いなー」と話していると、実は一度流産したと打ち明けられた。

それを思い出してぞっとした。わたしはその時何と言ったか。

妊娠できたならまたできるよ、と言ったはずだ。

「自分の母親も1人目流産してるんだ、だからわたしもそう思う」と友人は笑いながら話していた。

その後お互い妊娠し、1日違いで子どもを産んでいる。

流産も死産も、機会がなければわざわざ言わないだけで、きっと身近に起こっていることなのだろう。わたしはここに書き遺していく。

 

 

病名は双胎間輸血症候群(TTTS)。

いくつか保険がおりて、入院手術にあたってかかった費用は賄えて収支はプラス。夫が「そんなの貰ってもむなしい」とらしくないことを言ったが、わたしは妊婦健診代やタクシー代に充ててくれと言った(夫が家計簿をつけている)。

 

もう二度と双子は妊娠したくない。

そのうち元気になって、何事もなければ2人目、3人目と産むつもりなので、今度は1人ずつ出てきてね。男の子でも女の子でもどっちでも良いから。

そして、妊娠するなら誰にでも起こり得ることだけれど、せめて自分の知ってる人たちだけでも、こんな思いはしませんようにと願わずにはいられない。